2011/09/24

「本を読んで、本を読んで、本を読め」「我が事よりも、人のために何が出来るか、自分以外のものに対して何が出来るのか良く考えろ」--。



「本を読んで、本を読んで、本を読め」「我が事よりも、人のために何が出来るか、自分以外のものに対して何が出来るのか良く考えろ」--。

今、目の前で静かに眠っている祖父は生前、繰り返しそう言っていました。ボクが物心付いた時から耳にたこができたほど言っていました。趣味は?と聞けば仕事、と即答するほど仕事に没頭していました。戦地に赴き、戦後は進駐軍や建設省で働き、そして石破二朗さんの秘書として東京事務所を任される仕事をしていました。優しいところも勿論ある反面、世にも恐ろしいほど厳しい面も持ち合わせた人でした。しかしながら厳しいながらも優しさはその奥底に常に感じることができる人でした。

ボクが15の頃、鳥取にて、ある日祖父母2人に連れられて、突然高知にドライブに行ったことを未だに記憶しています。祖父はいつものように無言で、ボクを桂浜に立つ坂本龍馬の銅像の前に連れて行きました。

当時ボクは歴史が好きで好んで歴史小説を読んでいたりお城の本を読んでいたりしましたが、子供の目には派手に映る戦国時代の勉強が殆どで、幕末の頃の知識は皆無でした。坂本龍馬のことは勿論耳に、目にしたことはありましたが、当時はまだ勉強不足で、世の中に革命を起こしたすごい人、くらいにしか思っていませんでした。

時が経ち、少しだけ大人になった時、何が言いたかったのか、分かったような気がしていました。別に祖父や自分を坂本龍馬になぞらえる気など毛頭ありません。そんな実力も底力も到底持ち得ません。世の中をひた走りに走り、駆け抜け、世界を意識して、大きな人間になれ、と言いたかったのかな、と思っていました。

そして更に時が経ち、最近はもう一歩踏み込んで考えるようになりました。要は自分が生きるのは何のためなのかよく考えろ、自分には何ができるのか、自分は「何か」のために何ができるのかよく考えろ、ということなのではないかと思っています。一生涯を通して考え抜けと言いたかったのだと思っています。

幼少の頃、毎年夏休みに鳥取に帰省していました。お盆前後ということもあって、祖父母の元には多くの親戚や知人が訪れてきていました。いつもにこやかに応対していました。その知人の方々に聞くところによると、祖父は何かと頼りがいがある人だったとか。常に勉学に励み、読み書きをし、大きなことを考え論じていました。

約6年ほど前、脳梗塞で倒れた後、認知症になりました。残念ながらボクに対する記憶も殆ど無くしてしまったようでした。6年前、たった6年前までで良かった、それまでに何も為し得ることができませんでした。何かを見せてあげることが何一つ出来ませんでした。例え言葉少ないながらもあれだけのことを学ばせてもらった祖父に何かを見せてあげたかったと一生涯拭いきれない後悔の念を今抱いています。

死の約1ヶ月前、ちょうど帰省したとき、その身体は衰弱仕切っていました。食事ももうろくに取っていないとのことでした。ボクの3日間の滞在中の初日と2日目、先に滞在していた叔母と共に見舞いに行き、2日目のその帰り、意識を無くしました。入所先の介護老人保健施設から突然の連絡を受け、帰り道急遽施設にトンボ帰りをしました。施設に着いた頃は何とか意識だけは戻っていました。祖父は、何しに来たんだ、もう帰れ帰れとでも言っているかのように、手で2人を追いやる素振りをしていました。

頑張ってね、とか、元気でいてね、とか、そういう言葉がつらいんだと直感的に思いました。初日には自分の口ではっきりと、後頭部を押さえながら「もうここがいけんじぇぇ」と言っていました。最近まであれだけ第一線でバリバリ活躍していた人物、脳と身体が噛み合わず、自分では何も出来なくなってしまったことに、ある種情けなさと怒りみたいなものがったのだと思います。

こちらが何を言っても、早よ帰れや、と言った感じでした。ボクは最後に「オレはもう東京に仕事に戻るからな、しばらくまた来れないぞ」と言いました。その瞬間今まで怒りの表情を浮かべていた顔が急に笑顔になりました。親指を突き立てた握り拳をボクに振りかざしていました。最後に祖父と握手をしました。死を目前にした人間とは思えないほど、こちらが手に痛さを感じてしまうほど強い握力でした。それが祖父との最後の思い出でした。

家族葬にも関わらず石破茂さんが駆けつけてくれて、生前祖父の仕事ぶりや石破二朗さんとの関わりなどを皆の前で語ってくれたことは本当に嬉しかったです。全力で駆け抜け、その途中に関わった人から何かしらの言葉を戴けるなんてホントに凄いことだと思います。

残された祖母が今祖父と同じ施設に入っています。祖父の葬儀の日、町長さんから米寿の御祝を頂戴していた。

自分は我以外の何かのために何ができるのか。

2011/09/03

横浜港ロイヤルウィング



大さん橋のロイヤルウィングにて以前勤務させていただいていた谷内田さんの還暦のお祝い会がありました。船上パーティーなんて極一部の選ばれた人が集まる場なんだろうなあ、と小さい頃から思っていたので、まさか自分が招かれるなんて、と思いとても嬉しかったことでした。

そして60歳になってもまったくそうは見えず若々しく、しかも今も昔も変わらず建築を世に送り続けているその姿は谷内田さんの身体の奥底からの力強さを感じずにはいられません。ボクが気安くおめでとうございますなんて言葉もかけるのもおこがましく、身分違いも甚だしいというもの。ホントにすごいと思います。

会はとても楽しかったです。準備のためにかなりの時間を割いて、最後は徹夜を続けて今日の会に至ったスタッフの方々には脱帽です。おかげさまでホントに楽しかった。



スタッフの人達がチームワークが良く、一人一人の役割もしっかりとしていて、会も非常にスムーズに進行していき、洋上からの夜景も綺麗であっという間の2時間でした。それにしても、中川君といとうちゃんの名司会ぶりがとても頼もしかったですね。すばらしい。
谷内田さんにもまたお目に掛かる日を楽しみにしております。おめでとうございました。