2014/05/04

その建築の先にあるもの。その建築が包括する大きな意味。ザハ・ハディッド設計 韓国ソウルDDP

東大門にある今年3月にオープンしたばかりのデザインプラザを見に行った。その圧倒的な造形的迫力に度肝を抜かれた。久々に受けた衝撃だ。
ザハ・ハディドは、2020年に東京で開催される新国立競技場の設計者でもある。競技場もこのようなイメージになるのかな、と流線型に対するイメージの予行演習にもなりえそうだ。実際は、このDDPよりももっと建物高さが高くなる予定なので、この地形化したDDPよりも人に迫り来る感覚は強くなると思うが。

この施設に訪れていた特に子どもたちは嬉々として元気に施設の内外を走り回っていた。その姿を眺めていると、ザハの建築に対して批判ばかりが目立っているが、本当に批判ばかりで良いのかと思えてしまう。正直言って、見ていて楽しいのだ、純粋に。もう一つ簡単な言葉を使うと、ワクワクする、とも言える。

以下のサイトでは、ザハはインタビューに答え、「新しく文化施設を作る時、都市の脈略を再考してそれを新たなアイディアを考える際の糧として、それらを再構築して建築の形に当てはめるという「新しさ」「新鮮さ」を考えるしかない」と言っている。これらは建築家に与えられた使命みたいなもので、当然といえば当然のことである。一般の人々が何か物事を考えるきっかけ、考えなおすきっかけを作るには、新鮮さを打ち出す以外建築表現としては他は無い。同時に使い方、人と人とのコミュニケーションの取り方など、考えていかなければならないが、建築の形態を考えるのであれば、今までのその土地、周辺環境の脈略をどのように、形態へ転化させるか、これをどこまで考えられるかが最重要ポイントだ。DDPでは過去の周辺環境をこの形態に溶け込ませながら設計している、と本人は言っている。その意図を一瞬には汲み取ることができないのは難点といえば難点だが、じっくり観察して使う人訪れる人がじっくり考えれば良いし、紹介する人も積極的にそのポイントとなるところをアピールしていってあげれば良いのである。

経済的に過度にお金がかかりすぎてしまうのも確かに問題だ。公共的建築であれば、そのお金は税収入でほとんどのものは賄われるであろう。素材の見直しや、流線型による金額増の提案はし続けなければならないし、建てた後のコミュニティの形成も設計当初から進めていかなければならないであろう。公共施設といえども、いかに民間を介在させてその知恵を借りながら協力して自主的に収益を生み出していくか。

一つとして同じ部材が無いと言っても過言ではないこの建物、作る側、職人さんもきっとめんどくさかったり、頭を悩ませたけだろうけど、同時にすごい楽しかったのでは、ワクワクしたのでは?と思えてならない。設計に携わった人間も死ぬほど頭を使ったのではないかと思う。モデリングソフトを駆使して数えきれないほどのスタディをしたであろう。作る過程から、作り終わり人々が使い続けていく過程まで血沸き肉踊る、構成にまで自分が自分の言葉で語れるようなそんな建物なのではないだろうか。

新しいものを作らずに、今あるストックを刷新して使い回していくリノベーション、コンバージョンの考え方もあるし、それはそれでとても重要でこれからの時代に必須な考え方であり賞賛され、推奨されるべき考え方であるのは間違いない。

でも新たに今まで以上により多くの人々にスポーツを観戦してもらうためには、ある時期にどうしても建て替えなければならない。その時、その必要収容人員を満たしていかに後々のことまで考えて設計していくか、そしてそれを作っていくか。建築家に与えられた使命は想像以上に重いと、このザハのソウルでの設計DDPを見て思った。いかに考えるかそれを日々人知れず黙々と考え続けなければならない。

ザハの施設を批判する人は、携帯に対する批判をするのが目立つと思う。では、周辺環境の文脈を捉えて、それを、直線ばかりで構成し、ところどころ遊びを付ける意味で円弧を描けば、それでここを訪れる人、その周辺に住む人は納得し、満足するのだろうか?どこにでもあるような均一な、均質的空間を作っておけばそれで良いのだろうか?設計する人、作る人、使う人、考えどころの最重要場面である。

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