アジアカップ、日本優勝しました!すごい!おめでとうございます!李がダイレクトボレーを決めた瞬間、というか、李の足が回転し始めて、長友からセンタリングされたボールとドンピシャで当たりそうな時に、思わず絶叫してしまいました、、。昼間ジョギング2時間して足が筋肉痛になるよりも、試合中に数々の叫びによる腹筋痛の方が痛いw。
ホント強くなったなあ、という気がします。去年のワールドカップよりももっともっと強くなってる気がする。でもこれは今まで培ってきた一つ一つの積み重ねなんだろうなと思います。今の選手達はみんなそれが強く分かっているんだと思う。ザッケローニ監督の細かい戦術の積み重ねだったり、むかしむかしその昔、世界のサッカーを学ぼうと海を渡った人から、いやそのもっと昔にも過酷な蹴球をしてきた人達から脈々と受け継いできたもの、それがここになって、花開いてきたんじゃないでしょうか。
何においても自分一人で為し得る事なんて何も無い、長友が香川のユニフォームを大きく掲げた時そんな思いがしました。
2011/01/30
2011/01/29
『新建築2011.1 月評』(の月評)
内藤廣氏、越原幹雄氏、山梨和彦氏、原田真宏氏の顔ぶれでこれからの一年間の『新建築』の月評。内藤さんがしょっぱな宣言している通り、月評とは自由な語り口で自由に論評されるべきものである。氏は「いい加減な印象論評、いいではないか」と言ってのけている。実に面白いし、親しみの持てる切り口。たぶんこの号の内藤さんの文章、一般の建築を仕事にしていない人が読んでも面白いと感じるんじゃないかなあ。でも、きちんと設計者に対する敬意は表している。「ほとんどの建物は、涙なくしては語れないような盛りだくさんの物語を背負って晴れて誌面に登場する。、、」とあらかじめ述べている。
「建築ジャーナリズムに現れる作品群が「小さな物語」の集合になっているように見えるからだ。」と氏は言う。じゃあ「大きな物語」とは何か。文章からは、人口爆発、飢餓、環境汚染、コンピュータ技術の進化、これらのある種環境問題を言っているように思える。これらはいくら消えたと最近の論客が述べてもどれひとつ決着なんてしてない、消えていない、と言う。と言うことはそこから考えるに「小さな物語」とは何だろう?例えば、シェアハウスがあり、1階が供用のロビーや、作業場で、2階が共同のキッチンと団らんスペースがあって、その上の階から最小限の個室があって、そこでは皆で協議しながら共同運営をおこなっていて、つまりそこには物語、そこに住む人々が織りなすドラマがあるのだ、という感じのことを小さな物語と呼んでいるのかな?いや、ちょっと違うかな?もっと建築的な話で、こんなに曲線使ってみたんだぜオレの建築、みたいな自惚れ、勘違いのことを指しているのか。でもまあ事のつまりは、大きな物語、問題点から目をそらさずに、それに向き合ってなおかつ、その先の問題として「小さな物語」があるのなら良いが、「小さな物語」ばかりに話の論点を持って行って、その「小さな物語」の開発というか、「小さな物語」による活性化がなされさえすれば、今地球上で起きている問題はあたかも解決したかのように、あるいは、その「小さな物語」さえうまくいけば、全てがうまくいくみたいな、現在の風潮があるがそれに警鐘を鳴らしているのだろうか。
面白いのが、建築やその設計者、建築家を批評する際に用いるフレーズの「力を持て余している」。ホキ美術館の山梨氏、Small Atelierの五十嵐氏に対して用いていた。確かに「小さな物語」「大きな物語」という言葉は自分の頭の中に思い浮かんだことは無いけれど、普段からそんなことは考えていた。30m曲線付きキャンチどうよ?扉の隙間から漏れてくる光素敵でしょ?と言っても、へー、って感じである。人の暮らしに関わるディテールはとても重要だけど、あまり関係のない、あってもなくても、人の心を豊かにもし得ないディテールばかりやり過ぎると、それは建築というモノを使ったマスターベーション、自慰行為になってしまう、実際に建築を作っている職人の方々、住まい手の方々からそのように思われてしまうので要注意です。30mキャンチはちょっと行き過ぎたか?と思い、扉の隙間からの光はやり過ぎの自慰行為とは思わないけど、一歩間違うとその危険性もはらんでいると思う。でも、その境界線てホント難しい。何の工夫もないつまらないものをはびこらせることにもなっちゃい兼ねないし、そうなると寂しいし、何のために頭や体を使って設計をしているのか意味分からなくなっちゃう。内藤さんの「建築という価値に対する畏れと身の丈に合った思考」に基づくこれからの月評に期待。
越原さんの論評は、またこれでもかってくらいモデュールに焦点を当てて論理を構築している。随分細かいことを言ってるな、と思い最後まで読み進めて、最後のフレーズでハッとなる。モデュールの支配から脱却して特殊解を持った自由な建築を創造しよう、というのである。確かにどこかで聞いたことのあるフレーズなんだけど、なかなか一般的な建築ではなされていないのも事実。伊東さんとかの建築がモデュールに縛られていないと言えばそうかな確かに。でも、もし、特殊解の建築ばかりになると、それは先の内藤さんが言うところの「小さな建築」にもなってしまうことに繋がっていく恐れもあるし難しいところ。
山梨さんは前半部分に括弧書きがいくつかあり、それに興味を惹かれた。たぶん括弧書きとそうじゃないところを、完全に逆にした方が、より良く読者に氏のおっしゃりたいことが伝わるんじゃないかと思えるほど。というかそう思う。言いたいことは全部括弧書きの中にあるのではないか。
読んでも読んでもなかなか月評が現れないなあ、と思いながら読んでしまうのが原田氏、全体の2/3-5/6が自身の思想のような気がする、でもそれも月評、と言えば月評なのかも。同じ月評でも特に内藤さんと文体や全体の文章構成が全然違っているのもまた興味深さをそそられる。「人文学」という言葉の使い方がいまいち分からず。氏のフレーズ、「つまり、社会が成熟するに従って人文学としての建築が優先されることになってくる。」とはいかに??
「大きな物語」「小さな物語」「モデュール」といういくつかの気になるキーワードらしきものが出てきました。いずれの言葉もそれぞれが持つ言葉の意味と、表裏一体というか一触即発です。論評だからある程度そのような言葉で建築が論じられるのは良いことと思いますが、それらの言葉が建築を支配的するのは考えもの。だってそうなった時点で、大きくも小さくもなる可能性をはらんだ「物語」が生まれてしまうから。その「物語」が内容的に出はなく、物理的に小さいうちは良いけど、だんだん大きくなってしまうと、人々が語るものは意識の上での「物語」ばかりになってしまい、「建築」が姿を消してしまいそうで、、そうなるとやっぱりどこか寂しいし。だからこそそのような言葉が建築上に現れなくとも、その建築を使う人々がそれぞれの使いこなし方ができるようになるような建築を考えていきたい。自由とか特殊解ということを建築の形で示しても、それは本当の意味で人々が自由になれる、ということにはイコールにはなり得ないとボクは思うのです。なんのための建築かをこれからも考え続けていきたいです。(自分のwebsiteにもまとめて転載しようと思っています。)
「建築ジャーナリズムに現れる作品群が「小さな物語」の集合になっているように見えるからだ。」と氏は言う。じゃあ「大きな物語」とは何か。文章からは、人口爆発、飢餓、環境汚染、コンピュータ技術の進化、これらのある種環境問題を言っているように思える。これらはいくら消えたと最近の論客が述べてもどれひとつ決着なんてしてない、消えていない、と言う。と言うことはそこから考えるに「小さな物語」とは何だろう?例えば、シェアハウスがあり、1階が供用のロビーや、作業場で、2階が共同のキッチンと団らんスペースがあって、その上の階から最小限の個室があって、そこでは皆で協議しながら共同運営をおこなっていて、つまりそこには物語、そこに住む人々が織りなすドラマがあるのだ、という感じのことを小さな物語と呼んでいるのかな?いや、ちょっと違うかな?もっと建築的な話で、こんなに曲線使ってみたんだぜオレの建築、みたいな自惚れ、勘違いのことを指しているのか。でもまあ事のつまりは、大きな物語、問題点から目をそらさずに、それに向き合ってなおかつ、その先の問題として「小さな物語」があるのなら良いが、「小さな物語」ばかりに話の論点を持って行って、その「小さな物語」の開発というか、「小さな物語」による活性化がなされさえすれば、今地球上で起きている問題はあたかも解決したかのように、あるいは、その「小さな物語」さえうまくいけば、全てがうまくいくみたいな、現在の風潮があるがそれに警鐘を鳴らしているのだろうか。
面白いのが、建築やその設計者、建築家を批評する際に用いるフレーズの「力を持て余している」。ホキ美術館の山梨氏、Small Atelierの五十嵐氏に対して用いていた。確かに「小さな物語」「大きな物語」という言葉は自分の頭の中に思い浮かんだことは無いけれど、普段からそんなことは考えていた。30m曲線付きキャンチどうよ?扉の隙間から漏れてくる光素敵でしょ?と言っても、へー、って感じである。人の暮らしに関わるディテールはとても重要だけど、あまり関係のない、あってもなくても、人の心を豊かにもし得ないディテールばかりやり過ぎると、それは建築というモノを使ったマスターベーション、自慰行為になってしまう、実際に建築を作っている職人の方々、住まい手の方々からそのように思われてしまうので要注意です。30mキャンチはちょっと行き過ぎたか?と思い、扉の隙間からの光はやり過ぎの自慰行為とは思わないけど、一歩間違うとその危険性もはらんでいると思う。でも、その境界線てホント難しい。何の工夫もないつまらないものをはびこらせることにもなっちゃい兼ねないし、そうなると寂しいし、何のために頭や体を使って設計をしているのか意味分からなくなっちゃう。内藤さんの「建築という価値に対する畏れと身の丈に合った思考」に基づくこれからの月評に期待。
越原さんの論評は、またこれでもかってくらいモデュールに焦点を当てて論理を構築している。随分細かいことを言ってるな、と思い最後まで読み進めて、最後のフレーズでハッとなる。モデュールの支配から脱却して特殊解を持った自由な建築を創造しよう、というのである。確かにどこかで聞いたことのあるフレーズなんだけど、なかなか一般的な建築ではなされていないのも事実。伊東さんとかの建築がモデュールに縛られていないと言えばそうかな確かに。でも、もし、特殊解の建築ばかりになると、それは先の内藤さんが言うところの「小さな建築」にもなってしまうことに繋がっていく恐れもあるし難しいところ。
山梨さんは前半部分に括弧書きがいくつかあり、それに興味を惹かれた。たぶん括弧書きとそうじゃないところを、完全に逆にした方が、より良く読者に氏のおっしゃりたいことが伝わるんじゃないかと思えるほど。というかそう思う。言いたいことは全部括弧書きの中にあるのではないか。
読んでも読んでもなかなか月評が現れないなあ、と思いながら読んでしまうのが原田氏、全体の2/3-5/6が自身の思想のような気がする、でもそれも月評、と言えば月評なのかも。同じ月評でも特に内藤さんと文体や全体の文章構成が全然違っているのもまた興味深さをそそられる。「人文学」という言葉の使い方がいまいち分からず。氏のフレーズ、「つまり、社会が成熟するに従って人文学としての建築が優先されることになってくる。」とはいかに??
「大きな物語」「小さな物語」「モデュール」といういくつかの気になるキーワードらしきものが出てきました。いずれの言葉もそれぞれが持つ言葉の意味と、表裏一体というか一触即発です。論評だからある程度そのような言葉で建築が論じられるのは良いことと思いますが、それらの言葉が建築を支配的するのは考えもの。だってそうなった時点で、大きくも小さくもなる可能性をはらんだ「物語」が生まれてしまうから。その「物語」が内容的に出はなく、物理的に小さいうちは良いけど、だんだん大きくなってしまうと、人々が語るものは意識の上での「物語」ばかりになってしまい、「建築」が姿を消してしまいそうで、、そうなるとやっぱりどこか寂しいし。だからこそそのような言葉が建築上に現れなくとも、その建築を使う人々がそれぞれの使いこなし方ができるようになるような建築を考えていきたい。自由とか特殊解ということを建築の形で示しても、それは本当の意味で人々が自由になれる、ということにはイコールにはなり得ないとボクは思うのです。なんのための建築かをこれからも考え続けていきたいです。(自分のwebsiteにもまとめて転載しようと思っています。)
2011/01/25
久々に谷内田章夫ワークショップの内覧会にお邪魔しました。
土曜日に久々に谷内田章夫ワークショップの内覧会にお邪魔しました。外観はコンクリートの精度の良さが遠目にもはっきりと分かるほどで、逆に手スリ壁のくもりガラスと、手スリの金属とが相まって表面的につるっとした感じが強いように思えるほど。外部にグリッドを切って、建物本体はガルスパンの金属板で覆ういつものパターン、更にますますそのパターンに磨きが掛かっています。
内部も工業既製品なんじゃなかろうか?と見まがう程のシナ合板の塗装の綺麗さ。見る人見る人みんな言ってました。シナ合板を一度脱色してなおかつ白を入れ拭き取ったとか、工場で塗ったとか。収納スペースも高さ1.4m以下のスペースまで含めると、とても充実していて、何より、レベル差が生きてとても空間に弾力がある感じ。工事費との兼ね合いもあるのでしょうが、使える空間は使うという師の方針が毎回良く伝わって来ます。誰のための、何のための建築なのか、建物なのか、何と言ってもそこなんですよね、やっぱり。
そして北側のこの景色。初台と代々木八幡のちょうど中間くらいに位置しているロケーション。西新宿の超高層が目の前に。屋上からの眺めも最高です。でも屋上は普段は普通には入れないのかな?
そう、ほとんどの部屋は北側採光。でも、めいっぱいの大きい開口部を取っていれば、北側といえども明るく問題なし。ガラスもしっかりと複層ガラスにしており、結露の心配もとりあえず無さそう。敷地南側にはすぐ近くに、コンクリート打放しの集合住宅が迫っているため、無理に全戸南面採光にしなくて正解だと思う。ホントに何から何まで、らしい、建物でした。
内部も工業既製品なんじゃなかろうか?と見まがう程のシナ合板の塗装の綺麗さ。見る人見る人みんな言ってました。シナ合板を一度脱色してなおかつ白を入れ拭き取ったとか、工場で塗ったとか。収納スペースも高さ1.4m以下のスペースまで含めると、とても充実していて、何より、レベル差が生きてとても空間に弾力がある感じ。工事費との兼ね合いもあるのでしょうが、使える空間は使うという師の方針が毎回良く伝わって来ます。誰のための、何のための建築なのか、建物なのか、何と言ってもそこなんですよね、やっぱり。
そして北側のこの景色。初台と代々木八幡のちょうど中間くらいに位置しているロケーション。西新宿の超高層が目の前に。屋上からの眺めも最高です。でも屋上は普段は普通には入れないのかな?
そう、ほとんどの部屋は北側採光。でも、めいっぱいの大きい開口部を取っていれば、北側といえども明るく問題なし。ガラスもしっかりと複層ガラスにしており、結露の心配もとりあえず無さそう。敷地南側にはすぐ近くに、コンクリート打放しの集合住宅が迫っているため、無理に全戸南面採光にしなくて正解だと思う。ホントに何から何まで、らしい、建物でした。
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PTa-Openhouse
2011/01/22
一歩ずつ少しずつでも地道な作業をしていこうと言うことで満場一致。
AfH-T設立準備会の打ち合わせを高田馬場の10°cafeにておこなった。川沿いのとても素敵な居心地の良いカフェ。今後の広報活動の具体的活動について話し合う。一歩ずつ少しずつでも地道な作業をしていこうと言うことで満場一致。それぞれ持ち場を決めて作業分担。本部との関わり合い方探る。少しでもAfHの活動が伝わるよう、ほんの少しでも具体的にアクションを進めていければと思う。今後はこの作業をコツコツと継続していくことと、AfHの日本支部、東京支部、また各地の支部を作ることの意義をよりよく、分かり易く伝えていけるよう、その内容と方法を議論、展開していくことが肝要。
label:
AfH-T設立準備会
2011/01/21
ユーロモビルと植栽フェンス
ユーロモビルの山﨑さんとすごい久々に会う。過去、住宅のプロジェクトを通じて検討をしていただいたり、ご助言いただいたりしたことがとても懐かしい。キッチンを通じて建築全体の消費者動向や、デザイン動向などの対談。非常に意義深かった。
その時道すがら見た工事現場のフェンスに掛けてあった植栽。同じ壁面緑化でもこんなのばっかりだったら楽しいのになぁ、、。
その時道すがら見た工事現場のフェンスに掛けてあった植栽。同じ壁面緑化でもこんなのばっかりだったら楽しいのになぁ、、。
2011/01/20
『月刊地球環境2010年2月号』(2010年4月号を最後に休刊中)
ぱっと目にして印象に残ったのでじっくりと目を通してみました。特集が、「ソーシャルビジネスって何だろう?」だったからで、今取り組んでいるArchitecture for Humanity Tokyo設立準備会にももちろん通ずるし、ずっと自分のやりたい方向の記事であるからです。
SB(ソーシャルビジネス)とは、<子育て支援、障害者・介護支援、環境対策、地域活性化、まちづくりなどの手法を活用して解決するビジネス>のこと、と言われています。(『月刊地球環境2010年2月号』より) 1年前の雑誌ですが、ネットなどで現在最新の定義を調べても変わっていないようですね。
そして、SBの要件として、
1.社会性
社会的課題に取り組むことが事業活動のミッションである
2.事業性
ミッションをビジネスの形として継続的に進めること
3.革新性
新しい社会的商品・サービスやそれを提供するための仕組みを開発したり、活用したり、広く普及すること
が挙げられています。(前出)
1.を中心としているのがNPO、2.を中心としているのが通常の営利企業、とも言えると思います。自分の中でもまだはっきりと定義づけられていないというか、良く判らない部分でもあるのですが、要は、NPO法人でも、企業でも、はたまた個人事業でもSBを本事業と絡めてやっていくのであれば組織の形態としては問わないのだと思います。
ただ、認定NPO法人になれば、税制上の優遇措置が受けられるなど法整備も整いつつあるようです。認定NPO法人に寄付する側も、される側も優遇されるのであれば、まだ寄付文化がそれほど根付いていない日本にも広まっていくのではないかな、と思っています。
そして、この本を読んでいて、ボクも気になっていたことがあって、読み進めていくと、やっぱり同じ事が書いてありました。以下はその抜粋です。
-多くの日本企業の経営者は、「ソーシャルビジネスと言うが、株主に配当し、税金を払えば、企業としての社会的責任は果たしている。それ以上に何をしろというのか」「理想、理念は分かるが、現実の経営は厳しい」と異論を唱えるかも知れない。-(前出)
そう、いろんな人とお話をすると、必ずこのお言葉を頂戴します。更には昔、漫画の野口英世物語にも「自分の愛する妻や子供を幸せにできないようで何で世の中のよそ様を幸せにすることができるんだ!」と野口英世は怒鳴られていた場面があったような気がします。(野口英世が言ってたんだっけな?それでも彼は世界に打って出る、みたいな感じだったような、、。)
全部のことをまんべんなく実現できれば一番良いし、良いに決まってます。周りのことばかりしていたら、家庭は崩壊するでしょうし、そもそも活動が継続できなくなってしまい兼ねない。だからといって今この地球の状況を鑑みるに、身内の利益ばかりを追求していては立ち行かない状況になっているんじゃないかなとも思うんです。この2つの相反するような、表裏一体にも思えること、これ根本的で重要な問題です。
だからソーシャルビジネスなんだと思います。NPO法人が(もちろん企業も)社会事業を継続できるよう、活動スタッフの給与が得られるよう、活動を通じて利益を追求し、常に世界に目を向ける人が一人でも多くなれば良いなと思っています。
NPO法人、認定NPO法人の設計事務所やデザイン事務所が今後もっと増えていっても良いんじゃないでしょうか。設計の力、デザインの力で社会的課題の解決をするということを第一義とする考えがもっともっと根付いていけばなと思い、そんな活動を永続的にしていきたいです。
SB(ソーシャルビジネス)とは、<子育て支援、障害者・介護支援、環境対策、地域活性化、まちづくりなどの手法を活用して解決するビジネス>のこと、と言われています。(『月刊地球環境2010年2月号』より) 1年前の雑誌ですが、ネットなどで現在最新の定義を調べても変わっていないようですね。
そして、SBの要件として、
1.社会性
社会的課題に取り組むことが事業活動のミッションである
2.事業性
ミッションをビジネスの形として継続的に進めること
3.革新性
新しい社会的商品・サービスやそれを提供するための仕組みを開発したり、活用したり、広く普及すること
が挙げられています。(前出)
1.を中心としているのがNPO、2.を中心としているのが通常の営利企業、とも言えると思います。自分の中でもまだはっきりと定義づけられていないというか、良く判らない部分でもあるのですが、要は、NPO法人でも、企業でも、はたまた個人事業でもSBを本事業と絡めてやっていくのであれば組織の形態としては問わないのだと思います。
ただ、認定NPO法人になれば、税制上の優遇措置が受けられるなど法整備も整いつつあるようです。認定NPO法人に寄付する側も、される側も優遇されるのであれば、まだ寄付文化がそれほど根付いていない日本にも広まっていくのではないかな、と思っています。
そして、この本を読んでいて、ボクも気になっていたことがあって、読み進めていくと、やっぱり同じ事が書いてありました。以下はその抜粋です。
-多くの日本企業の経営者は、「ソーシャルビジネスと言うが、株主に配当し、税金を払えば、企業としての社会的責任は果たしている。それ以上に何をしろというのか」「理想、理念は分かるが、現実の経営は厳しい」と異論を唱えるかも知れない。-(前出)
そう、いろんな人とお話をすると、必ずこのお言葉を頂戴します。更には昔、漫画の野口英世物語にも「自分の愛する妻や子供を幸せにできないようで何で世の中のよそ様を幸せにすることができるんだ!」と野口英世は怒鳴られていた場面があったような気がします。(野口英世が言ってたんだっけな?それでも彼は世界に打って出る、みたいな感じだったような、、。)
全部のことをまんべんなく実現できれば一番良いし、良いに決まってます。周りのことばかりしていたら、家庭は崩壊するでしょうし、そもそも活動が継続できなくなってしまい兼ねない。だからといって今この地球の状況を鑑みるに、身内の利益ばかりを追求していては立ち行かない状況になっているんじゃないかなとも思うんです。この2つの相反するような、表裏一体にも思えること、これ根本的で重要な問題です。
だからソーシャルビジネスなんだと思います。NPO法人が(もちろん企業も)社会事業を継続できるよう、活動スタッフの給与が得られるよう、活動を通じて利益を追求し、常に世界に目を向ける人が一人でも多くなれば良いなと思っています。
NPO法人、認定NPO法人の設計事務所やデザイン事務所が今後もっと増えていっても良いんじゃないでしょうか。設計の力、デザインの力で社会的課題の解決をするということを第一義とする考えがもっともっと根付いていけばなと思い、そんな活動を永続的にしていきたいです。
label:
AfH-T設立準備会,
Local Design
2011/01/19
5年8ヶ月振りに泳ぐ
びっくり筋肉痛です、w。ちょっとしか泳いでないんだけど、、。今年の7月に、これまた10年振りになる母校の小学校の夏の学校(臨海学校)に水泳師範として水泳を教えに行くことを目標に立ててますが、この体ではまずい、あの超ハードな肉体労働にはとても耐えられそうにない、、。
やんちゃでもそうでないひとも全員、中学生に上がる直前の子供たちと話すのがとても面白かった10年前までの夏の学校のひととき。あれをもう一度体験したい!
やんちゃでもそうでないひとも全員、中学生に上がる直前の子供たちと話すのがとても面白かった10年前までの夏の学校のひととき。あれをもう一度体験したい!
2011/01/17
1月のボロ市も終わりました。
2011/01/16
次の人達に繋げなければならないっていう
雑司ヶ谷にある『らいおん建築事務所』(http://www.lion-kenchiku.com/)に嶋田さんを訪ねて行く。とても素敵な感じの事務所に刺激を受ける、っていうか、どっちかっていうとある種の懐かしさみたいな感覚に捕らわれた。なんかみんなで集まってワイワイやりそうな感じ?それこそ建築系の研究室みたいな?食事をしながらいろいろと話をした。今までのこと、そして今のそれぞれの動きや、今後の展望みたいなこと。それこそ刺激を受ける話ばっかりで覚え切れてないほど、笑。小嶋研の先輩の中でも嶋田さんだけなんか思わぬところで会う不思議を感じていました。ビックサイトだったり、エレベーターホールだったり、明治神宮だったり、日本のカタチだったり、ってそれくらいかな、笑、もっと会ってるような気もするけど。きっと思考回路のホントちょっとした部分が似ているんだろうな。次の人達に繋げなければならないっていうのも、正に自分も小さい頃から祖父や親戚や親などから聞かされてきたことだし、その恩恵にも実際授かってきて、次は自分の番、と思っていること、それを嶋田さんも明確に打ち出していることにはちょっと感動。次の良い展開へ。
2011/01/15
骨を拾ったその箸の先からも、その思いの重みみたいのが伝わってきた。
そこに確かに居た。決して日本の中で知る人ぞ知るとか、世界の中でも有名人とかそういうのでは無い。お店を経営してたこともあり多少知り合いが多い程度である。でも確かにその人はそこに居て着実に確実に、家族に、周囲の人々に愛されながら生活を営んでいたのである。自分の人生においてとても到達できなそうなくらいの大き過ぎる寛大な心を持ち、何を言ってもやっても「よか、よか」と言ってよく笑っていた。残された身近な人たちにものすごい優しさや幸福を残してくれた。これはやはりとても凄いことだし、ちょっとやそっとじゃ成し得ない事だと思うんです。まず何を持っても先に周りの人々が幸せを感じることができるよう生きる。その結果というかその原因というか自分も全力で生きていた。骨を拾ったその箸の先からも、その思いの重みみたいのが伝わってきた。そうなんです、やっぱり同じ生きるんだったら身近な人たちや自分以外の何かのために生きたいと思うんです。長崎での葬儀を終えて。
2011/01/08
日本のカタチ2050 #nihon2050 on Twitter
会場の東京芸術学舎の写真 >http://ow.ly/i/73UD
しかし、R不動産馬場さんはホント建築家泣かせのことをしてらっしゃる、笑。行ってきました、40年後、実はそう遠くは無い日本の姿を話し合う場。3回目にして初めて聴いてみたけどかなり面白かった、という表現は適切じゃないかも知れないけど、竹内氏、馬場氏、山崎氏、マエキタ氏の話は話自体、それ自体がホントに面白かった。
先行投資という一つのキーワードらしきものが出てきました。収益見込めるところで仕事をする先人達とは違い、人口減少まっしぐらのまっただ中でいかに先が見えない中で先行投資ができるか、うーん自分で書いておいてなかなか難しい。良く考えてみると、いつの時代も仕事として先行投資をし、大きな利益が生まれることもあれば、全く利益が挙がらず潰れてしまうこともあったわけで。
でも、確かに2050年には日本の人口は今の半分近くになってしまうわけで、税収もほとんどなくなっちゃうわけで、公共事業もほとんどなくなっちゃうわけで、「もう、仕分け、ありません、、、」みたいな、もう仕分けするものすらほとんどなくなっちゃうわけで、、。
先行投資する側、つまり個人個人一人一人の、モノを見る目が相当養われていないとやってけなくなっちゃう時代がすぐそこに、というわけですね。単に見た目や表面だけで判断せず、1回2回接しただけで、1回2回答えが出ただけで、レッテル貼るようなことはせず、というかしてはなりません。ということは見る側も相当力が求められる、というわけですね。
デザインをするとは何か、建築家が建築をする、設計をするとは何か、の切り口が必然的に変わってしまっている予感。次回のテーマ、政策提言アンドポジティブ未来予想、楽しみ。ツイッター上で #nihon2050 で(かっこは無し)検索を。
公開討論会の後、studio-Lの山崎氏とArchitecture for Humanity Tokyo設立準備会(現段階での設立準備会の代表も務めている山崎さんが、正式にAFH Tokyoが発足していない段階なので設立準備会と呼んでいるとのことなので、ボクもエーエフエッチ・ティー・ベータでは無く、AFH Tokyo設立準備会と呼んでみることにします。)の話し合いをするもなかなか切り口が見つからず。まずとっかかりとしてArchitecture for Humanityを広めていくところから。どれだけ日本の中で多くの人に、AFHに限らず、JICAは名が知られているので誰でも知ってると思うのですが、それ以外にPWJなども含めてそのようなビジネスとしての社会事業を広めていくことができるか、知ってもらうことができるのか。相当持久戦になると思うけど、だからこそ決して諦めずじっくりと取り組んでみたい課題。3月、パレローニ氏、キャメロン氏を呼んでの神戸でのシンポ、是非参加したい。
>http://ow.ly/i/73UD
しかし、R不動産馬場さんはホント建築家泣かせのことをしてらっしゃる、笑。行ってきました、40年後、実はそう遠くは無い日本の姿を話し合う場。3回目にして初めて聴いてみたけどかなり面白かった、という表現は適切じゃないかも知れないけど、竹内氏、馬場氏、山崎氏、マエキタ氏の話は話自体、それ自体がホントに面白かった。
先行投資という一つのキーワードらしきものが出てきました。収益見込めるところで仕事をする先人達とは違い、人口減少まっしぐらのまっただ中でいかに先が見えない中で先行投資ができるか、うーん自分で書いておいてなかなか難しい。良く考えてみると、いつの時代も仕事として先行投資をし、大きな利益が生まれることもあれば、全く利益が挙がらず潰れてしまうこともあったわけで。
でも、確かに2050年には日本の人口は今の半分近くになってしまうわけで、税収もほとんどなくなっちゃうわけで、公共事業もほとんどなくなっちゃうわけで、「もう、仕分け、ありません、、、」みたいな、もう仕分けするものすらほとんどなくなっちゃうわけで、、。
先行投資する側、つまり個人個人一人一人の、モノを見る目が相当養われていないとやってけなくなっちゃう時代がすぐそこに、というわけですね。単に見た目や表面だけで判断せず、1回2回接しただけで、1回2回答えが出ただけで、レッテル貼るようなことはせず、というかしてはなりません。ということは見る側も相当力が求められる、というわけですね。
デザインをするとは何か、建築家が建築をする、設計をするとは何か、の切り口が必然的に変わってしまっている予感。次回のテーマ、政策提言アンドポジティブ未来予想、楽しみ。ツイッター上で #nihon2050 で(かっこは無し)検索を。
公開討論会の後、studio-Lの山崎氏とArchitecture for Humanity Tokyo設立準備会(現段階での設立準備会の代表も務めている山崎さんが、正式にAFH Tokyoが発足していない段階なので設立準備会と呼んでいるとのことなので、ボクもエーエフエッチ・ティー・ベータでは無く、AFH Tokyo設立準備会と呼んでみることにします。)の話し合いをするもなかなか切り口が見つからず。まずとっかかりとしてArchitecture for Humanityを広めていくところから。どれだけ日本の中で多くの人に、AFHに限らず、JICAは名が知られているので誰でも知ってると思うのですが、それ以外にPWJなども含めてそのようなビジネスとしての社会事業を広めていくことができるか、知ってもらうことができるのか。相当持久戦になると思うけど、だからこそ決して諦めずじっくりと取り組んでみたい課題。3月、パレローニ氏、キャメロン氏を呼んでの神戸でのシンポ、是非参加したい。
>http://ow.ly/i/73UD
| みかんぐみ竹内氏のプレゼン場面 |
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AfH-T設立準備会
めかぶ粥?
白米2合に水7カップ。途中で水を足し足し、沸騰しては火力を弱めたり別の火口に鍋を移したり、格闘すること1時間以上。七草入れて、塩入れて、ようやくできました。けど、、全然塩気が無い、塩分控えめもいいところ。だったら、と梅干しを崩しながらお粥を食べてみる、なかなかいける。でもまだ塩気というかパンチが足りない。思い切ってメカブを入れてみる。意外にイケル!塩分もほどよく足されて磯の香りも混ざり、独特のとろみも加わりなかなか良かったです。と、いうことは、だ。ひょっとして、納豆粥、これイケル?!次回チャレンジ!(かどうかはわかりません、笑)
さて、次回は建築の書評など、。
さて、次回は建築の書評など、。
2011/01/07
2011/01/06
明治神宮に初詣
元旦の夕方から夜に掛けてですが明治神宮に初詣に行ってきました。参道の表側から入った時は、お、スムーズに行きそうじゃんって思ったんだけど、やっぱり、、奥に進むにつれ凄い人、人、人、、。途中から入場規制が掛かり、しかも長蛇の列。でも、意外にも進みが良く1時間もしない内に南神門をくぐることができ、賽銭のところまでたどり着くことが出来ました。そこで、意外にも進みが良かった理由のひとつであろうことに納得。それは賽銭箱があまりにもデカイのである。箱とはもはや呼べず、賽銭投げるために群がっている人達は優にまるごと入れてしまう広さである。だから遠くから投げても絶対に入るし、人と接する横の長さ(うまく説明できず、、)が凄い長いから人の入れ替え、回転が速いのである。無事に地味に地道にこつこつと、と祈願してくることができました。
2011/01/05
手島先生を囲む会に参列
年末年始に手島先生が本拠地の福岡から東京にいらっしゃる際に毎年開かれていたという手島先生を囲む会に初めてお招きいただきまして参列してきました、ありがとう。年末に催されたんだけどすっかり書くのが遅くなってしまった。久々に会った人たちも居て少人数でしたが、近況を話し合える良い機会に。かつて理科大建築学科理工で席を同じく学んだ仲間(若干流行りの言葉、笑)がすっかり仕事上主戦力となって仕事を通じて社会に貢献している姿にはホントいつも頭が下がる思いで刺激を受けます。3月くらいに同窓会やれればいいねっ。
2011/01/04
エーエフエッチ・ティー・ベータ
Architecture for Humanity Tokyo設立準備会に興味を持った人間有志が集まり年明け初会合。まだ正式に発足したわけでは無いので日本語のカタカナでエーエフエッチ・ティー・ベータって自分の中で勝手に言ってます。各個人のやりたいこと、そしてエーエフエッチ・ティーとなった時にやること、やれることを話し合う。とにかく広めていくこと、広報活動をまず真っ先にやらなければいけません。そしてその先に、、。ポイントは日本独自の問題点を挙げ、または挙がっている問題点にどのような具体的解決策を提示し、具体的に実行するか、に最終的には収束する。現在Architecture for Humanity Tokyo設立準備会を率いているstudio-Lの山崎氏に再度お会いし話し合う場を持とう。
label:
AfH-T設立準備会
2011/01/01
遅咲き天使の保科氏とインド話
初夏にインドに2週間行ってきた遅咲き天使(http://osozakitenshi.com/)の保科氏に会い超濃いぃインド話で盛り上がること5時間。二人目のお子さんが生まれた、これまた超直後でインドに二週間修行とは、、なかなかやります、ほしなっち。デリー、シュリナガル、アーグラー、バラナシ、ボクはシュリナガルは行ったことが無いですが、その他はどこもかしこもとても懐かしい!11年前にインドに47日旅した記憶が未だに鮮明に瞬間的に蘇ってきます。ホントそれは不思議なくらい鮮明に。しかしほしなっちさん、シュリナガルによくぞ行きました、普通ならひよって行かないはずなんだけど。さすがバンドマン、ビートルズも修行した、ある意味聖地のためだたったら紛争地帯もなんのその。でも風景やそこで暮らしている人たちのとても良さそうなことは聞いていたし、行ってみたいと思います、次回はぜひ。自分の旅行紀もニューデリーの確かワイ字路で止まったまんまなので、そこから早く歩を進めないと。
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明けましておめでとうございます!!
新しい一年が始まりました。今年も気を引き締め飛躍できる年にしたいです。皆様もご多幸ある年になれば、と思っております。今年もよろしくお願い申し上げます。
毎年肝に銘じながら一瞬一瞬を過ごしていますが、今年は更に強く思いながら生活したいです。
地味に地道にこつこつと。
そうです、地味に地道にこつこつと、です。なかなか簡単そうでできにくいものです。ちっちゃい頃に考えた自分の中での一生肝に銘じ続けながら生きようと決めたフレーズです。ふと忘れることももちろんあるにはあるのですが、大きく反れることのないようにしたいですね。元気があれば何でもできる!というわけで元気よく生きたいと思います。
新しい一年が始まりました。今年も気を引き締め飛躍できる年にしたいです。皆様もご多幸ある年になれば、と思っております。今年もよろしくお願い申し上げます。
毎年肝に銘じながら一瞬一瞬を過ごしていますが、今年は更に強く思いながら生活したいです。
地味に地道にこつこつと。
そうです、地味に地道にこつこつと、です。なかなか簡単そうでできにくいものです。ちっちゃい頃に考えた自分の中での一生肝に銘じ続けながら生きようと決めたフレーズです。ふと忘れることももちろんあるにはあるのですが、大きく反れることのないようにしたいですね。元気があれば何でもできる!というわけで元気よく生きたいと思います。
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