2011/01/29

『新建築2011.1 月評』(の月評)

内藤廣氏、越原幹雄氏、山梨和彦氏、原田真宏氏の顔ぶれでこれからの一年間の『新建築』の月評。内藤さんがしょっぱな宣言している通り、月評とは自由な語り口で自由に論評されるべきものである。氏は「いい加減な印象論評、いいではないか」と言ってのけている。実に面白いし、親しみの持てる切り口。たぶんこの号の内藤さんの文章、一般の建築を仕事にしていない人が読んでも面白いと感じるんじゃないかなあ。でも、きちんと設計者に対する敬意は表している。「ほとんどの建物は、涙なくしては語れないような盛りだくさんの物語を背負って晴れて誌面に登場する。、、」とあらかじめ述べている。

「建築ジャーナリズムに現れる作品群が「小さな物語」の集合になっているように見えるからだ。」と氏は言う。じゃあ「大きな物語」とは何か。文章からは、人口爆発、飢餓、環境汚染、コンピュータ技術の進化、これらのある種環境問題を言っているように思える。これらはいくら消えたと最近の論客が述べてもどれひとつ決着なんてしてない、消えていない、と言う。と言うことはそこから考えるに「小さな物語」とは何だろう?例えば、シェアハウスがあり、1階が供用のロビーや、作業場で、2階が共同のキッチンと団らんスペースがあって、その上の階から最小限の個室があって、そこでは皆で協議しながら共同運営をおこなっていて、つまりそこには物語、そこに住む人々が織りなすドラマがあるのだ、という感じのことを小さな物語と呼んでいるのかな?いや、ちょっと違うかな?もっと建築的な話で、こんなに曲線使ってみたんだぜオレの建築、みたいな自惚れ、勘違いのことを指しているのか。でもまあ事のつまりは、大きな物語、問題点から目をそらさずに、それに向き合ってなおかつ、その先の問題として「小さな物語」があるのなら良いが、「小さな物語」ばかりに話の論点を持って行って、その「小さな物語」の開発というか、「小さな物語」による活性化がなされさえすれば、今地球上で起きている問題はあたかも解決したかのように、あるいは、その「小さな物語」さえうまくいけば、全てがうまくいくみたいな、現在の風潮があるがそれに警鐘を鳴らしているのだろうか。

面白いのが、建築やその設計者、建築家を批評する際に用いるフレーズの「力を持て余している」。ホキ美術館の山梨氏、Small Atelierの五十嵐氏に対して用いていた。確かに「小さな物語」「大きな物語」という言葉は自分の頭の中に思い浮かんだことは無いけれど、普段からそんなことは考えていた。30m曲線付きキャンチどうよ?扉の隙間から漏れてくる光素敵でしょ?と言っても、へー、って感じである。人の暮らしに関わるディテールはとても重要だけど、あまり関係のない、あってもなくても、人の心を豊かにもし得ないディテールばかりやり過ぎると、それは建築というモノを使ったマスターベーション、自慰行為になってしまう、実際に建築を作っている職人の方々、住まい手の方々からそのように思われてしまうので要注意です。30mキャンチはちょっと行き過ぎたか?と思い、扉の隙間からの光はやり過ぎの自慰行為とは思わないけど、一歩間違うとその危険性もはらんでいると思う。でも、その境界線てホント難しい。何の工夫もないつまらないものをはびこらせることにもなっちゃい兼ねないし、そうなると寂しいし、何のために頭や体を使って設計をしているのか意味分からなくなっちゃう。内藤さんの「建築という価値に対する畏れと身の丈に合った思考」に基づくこれからの月評に期待。

越原さんの論評は、またこれでもかってくらいモデュールに焦点を当てて論理を構築している。随分細かいことを言ってるな、と思い最後まで読み進めて、最後のフレーズでハッとなる。モデュールの支配から脱却して特殊解を持った自由な建築を創造しよう、というのである。確かにどこかで聞いたことのあるフレーズなんだけど、なかなか一般的な建築ではなされていないのも事実。伊東さんとかの建築がモデュールに縛られていないと言えばそうかな確かに。でも、もし、特殊解の建築ばかりになると、それは先の内藤さんが言うところの「小さな建築」にもなってしまうことに繋がっていく恐れもあるし難しいところ。

山梨さんは前半部分に括弧書きがいくつかあり、それに興味を惹かれた。たぶん括弧書きとそうじゃないところを、完全に逆にした方が、より良く読者に氏のおっしゃりたいことが伝わるんじゃないかと思えるほど。というかそう思う。言いたいことは全部括弧書きの中にあるのではないか。

読んでも読んでもなかなか月評が現れないなあ、と思いながら読んでしまうのが原田氏、全体の2/3-5/6が自身の思想のような気がする、でもそれも月評、と言えば月評なのかも。同じ月評でも特に内藤さんと文体や全体の文章構成が全然違っているのもまた興味深さをそそられる。「人文学」という言葉の使い方がいまいち分からず。氏のフレーズ、「つまり、社会が成熟するに従って人文学としての建築が優先されることになってくる。」とはいかに??

「大きな物語」「小さな物語」「モデュール」といういくつかの気になるキーワードらしきものが出てきました。いずれの言葉もそれぞれが持つ言葉の意味と、表裏一体というか一触即発です。論評だからある程度そのような言葉で建築が論じられるのは良いことと思いますが、それらの言葉が建築を支配的するのは考えもの。だってそうなった時点で、大きくも小さくもなる可能性をはらんだ「物語」が生まれてしまうから。その「物語」が内容的に出はなく、物理的に小さいうちは良いけど、だんだん大きくなってしまうと、人々が語るものは意識の上での「物語」ばかりになってしまい、「建築」が姿を消してしまいそうで、、そうなるとやっぱりどこか寂しいし。だからこそそのような言葉が建築上に現れなくとも、その建築を使う人々がそれぞれの使いこなし方ができるようになるような建築を考えていきたい。自由とか特殊解ということを建築の形で示しても、それは本当の意味で人々が自由になれる、ということにはイコールにはなり得ないとボクは思うのです。なんのための建築かをこれからも考え続けていきたいです。(自分のwebsiteにもまとめて転載しようと思っています。)

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