2010/11/16

スカイクロラ 押井守監督

自分の中に自ら見い出し得ないものは、自分以外のどこかで造れば良いのか?いやそうでは無い、それではいけない、というアンチテーゼ、なのか、、?それとも、幸せを感じるために不幸を作り続けるというのは、当然の行為で、現代社会がおこなっている全ての行為を表現しただけに過ぎないのか。

人の死を通じて自分の生を感じ、平和を感じ満足を得るために憎しみや怨みを造り出し争いを生じさせる、いやそもそも満足とか憎しみとか怨みという感情すら無いのかも知れない。でも、それだったら平和や幸せというものですら体感する必要がないのではないか?と思うのである。

何のために人は平和な状態や幸せを感じるのだろうか?何のために?というのもそもそも不毛な発想かも知れない。どうして?という方がものごとの本質を探るのに相応しい言葉かも知れない。どうして人は平和や幸せを感じるのだろうか?その答えを出すには容易ではないのだが、何かが理由で人は幸せを感じなければいけなのであろう。

そう考えると堂々巡りのようになってしまうようで、また袋小路にはまってしまうようで、何が何だかわからなくなってしまう。

そこではっきり分かることがある。自分は幸せな状態であることが大好きだ。幸せな状態になりたい、と願い、何かがきっかけで得られた幸せをつかんだ時幸せを感じる。人間誰しもそういう部分があるのではないかとぶっちゃけ思うのであるが、それは平和ボケしてしまっている自分だけの考え方なのかも知れない。

一生懸命努力して、ある成果や結果を出し、嬉しくなったり幸せになったりすることと、不幸な状態を見つけて、そこに自ら身を置き、改善し幸せな状態を意図的に恣意的に作ろうとする行為と何が違うのか?つまり、自分以外の何ものかが不幸な状態になっているとして、それを助けたりする行為も偽善行為と紙一重になってしまいかねない。ひょっとしたらやっていることは、或いはそれから生み出された結果は、同じなのかも知れない。となると、その両方の考え方に共通する一つのある解は、自分が自分のためだけに一生懸命幸せを作り出そうとする行為がもっとも善なる行為ということになるのではないだろうか?満足感が得たいから?それじゃスカイクロラに出てくる人物たちと結局同じになってしまうではないか。

やはりここで、そうじゃぁない、と思うのである。目の前に困難があれば解決のため立ち向かう、ただそれだけなのです。自分の満足感とか幸せとかはここまで突き詰めるとどうでもいいことなんです。たとえ周囲に偽善と言われようがなんだろうが、まあ言われないようにしなければいけませんが、ただ助けたい、不幸があれば幸せにしたい、平和にしたい、なりたいという行為を欲する、ただそれだけだと思うのです。

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