先週インターネット上の読売新聞の記事で、大工棟梁田中文男さんが亡くなったという記事が書かれていて、恥ずかしながらそれで知りました。以下は抜粋ですが、昔書籍で田中さんについて読んだのを今でも良く覚えています。当時は大学3年次で建築の勉強を初めて間もない頃で宮大工さんへの憧れが強くあった時でもありました。当時は田中さんの本を読んでただただ怖いっ、と思ってただけだったけど、笑。もう一度読み返してみましたが、当たり前ですがものすごい貴重な言葉の数々。どれもこれも当たり前のことを言ってるんだけど自分にはそれが出来ていないから。そうは思ってるんだけど、実行したいと思ってるんだけど、まだまだ自分には出来ていないから。一つずつ着実に実行をゆっくりとでもしていきたいです。心よりお悔やみ申し上げます。
自分もこのブログでもう少し建築にまつわることをトピックとして取り上げそれに普段勉強していることを織り交ぜながら建築のへぇーということを徐々に載っけていきたいと思ってます。
[追悼抄]木造建築の研究に努めた大工棟梁(とうりょう) 田中 文男(たなかふみお)さん
8月9日、肺がんで死去、78歳
返事は六つ。「わかる、わからない」「できる、できない」「好き、嫌い」
中途半端な返事を嫌い、現場で弟子に雷を落とすこともしばしば。「それ以外の返事をする者は、ええかげんな者だってわかりますから、相手にしない」。仕事に妥協を許さず、生前、よくこう語った。
14歳で宮大工の道に入り、21歳頃に独立した。「親方に教わったことだけでは食えない。職人は一生修業」。いつも本を広げて勉強する姿を周囲の多くが覚えている。
社寺や住宅の建築にとどまらず、佐賀県の吉野ヶ里遺跡・北内郭の復元や、重要文化財の修理まで手がけ、その仕事は宮大工の域を超えていた。20人を超える弟子を育ててきた大工棟梁である一方で、建築の歴史にも関心を持ち、大工や研究者、学生を集めて研究会を開いた。その記録として出版された機関誌「普請研究」は10年間で40冊に上り、「学者棟梁」とも呼ばれた。
「先見の明があり、材料から組み立てる人たちまで含め、大工の職能と社会全体との関わり方を常に考えていた」と、明治大の沢田誠二教授(68)(建築生産論)は評する。
「いい建築を造るには、いい材料が必要。自分で足を運び、全国を股にかけて材木のことを把握していました」。30年来の付き合いがあった山梨県甲州市・向嶽寺の宮本大峰老師(74)は振り返る。
同寺では、書院や座禅堂などを延べ10年かけて完成させたが、予算が厳しいと知ると、契約後にもかかわらず、自らの持ち出しで、より良い材木を使った。宮本老師は「50年、100年ではなく、さらに長くいいものを残そうという気持ちからでしょう」と語る。
長男の恭一さん(49)にとっての忘れられない思い出は、小学生の時、同級生の女子をからかったことを知られ、顔が腫れ上がるほど平手で殴られたこと。「子供にとっては、ひたすら怖い父親でした」
米国の大学へ留学する時も「他人に頼るな」「何をするのか、構想を持て」と、成田空港へ向かうバスの中で延々と説教を受けた。ところが別れ際、かけられた言葉は「頑張ってこいよ」。離陸するまで涙が止まらなかった。
亡くなるまでの2年間は入退院を繰り返す。弱った姿を見せたくないのか、自宅を訪れた見舞客に居留守を使うこともあった。
「男はつらいよ」シリーズの寅さんが好きで、全作を劇場でみたという。「色々あっても最後に寅さんは潔く去っていく。そんな姿が父は好きだった。居留守を使ったのも、父なりの美学だったのでしょう」(インターネット読売新聞)
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